カミュの手帖を読み終えた。
ペストを発表するまでのカミュは、明らかに調子が良い感じがあった。その後、シーシュポスの神話などで自己の哲学を確立していく、転落以降でその哲学を放棄して新たな境地へと向かう。ここまでは、明らかに多くの人が辿る道のような気もする。ヤン・チヒョルトの伝統主義への転向しかり、それほどシリアスに捉えるようなことでもない。しかし、その自己の放棄、が難しかったのだろうか、論争などもあり明らかに失速していく様子がある。手帳の中に風景の描写が減っていっているというメモが印象に残った。異邦人は、新しい人間像を文学において定義した作品である。内面豊かで情緒的でない主人公の持つ切実さを、それは普通に生きる人が持つものなのかもしれないがそれは文学の世界、プルーストのような饒舌さの中にはなかった。饒舌さではなく、ぎこちなさ、人間らしさや優しさを演じなければいけない世界の方を告発する。しかし、転落も追放と王国も面白かった。どちらにしてもカミュは新しい哲学ややり方を獲得できていたのだと思う。それは、制作方法自体の一新でもあるのだろう。カミュの手帖は、短文や思索を積み重ねることで、一つの作品を作るという試みがうまく行っている時代に機能しているものだった。後期のカミュには、そこまで有用ではなかったのではないか。すでにあるつぶやきを編集することで、一冊の本を書く、よしこれから書くぞというのではなく、すでに押してあったキャプチャボタンで録られた素材から作り始めること。私が、カミュの手帖を読み始めたのは自身の創作自体をそのようなメモを積み重ねる、先に作る、それを編集するようなスタイルに興味を持ち、実践し始めたからだ。そして、前半部分はその思索の様子がよくキャプチャされている。それ以降の制作については、より進んでいたのではないかと思う。キャプチャではなくなんだろうか。もちろん、一部は使われている。それだけではない、それは今後私自身の制作スタイルの変化から分かることなのだろうか。
Note
2025.2.4