( Note )

Note

雨が続いている。
仕方なく下着と小さなタオルだけを洗濯乾燥をしてどうにかする。
朝に掃除をする時に、自室の床をふいた。いつもやらない箇所。
土曜の午後に桜木町にBackroomsを見にいった。
前半部分は特に、実写とCGを組み合わせて。グリッチ的なズレを建築で表現していて、そこに人物が入り込んでいる様子がありがとうという感じだった。
自分は変わりたくない、という主人公の最後の言葉。映画の何か出来事によって、変わって希望が見える事を拒否するような言葉。
リミナルスペースが続いていく間、あの場所とは、奇妙なものであると同時に、共有された記憶の場所であり、懐かしさを覚える場所でもあるのだろう。ポストインターネットの美学というものに可能性を感じていたが、私はどこかでそれをあきらめてしまっていた。
リミナルスペースは、ポストインターネットとつながっているけれど、その先を見せてくれたように思う。小さな映画館の上映室だったが、満員だったのは、勢いもあると思うが、誰でも奇妙ななつかしさを共有できる空間だったというのもあるだろうと思った。

音楽で感動することは、音楽の中に鳴っていなかった音が聞こえる時だが、アリエルピンクの音楽ではそういう瞬間がいくつかある。
日曜日は久しぶりに晴れて、散歩をした。自転車に乗っているときに、坂の前の道で涼しい箇所があって川底を走っているような感覚になった。

崩壊すること
今までは、とにかくあらゆることをうまくやろうと努力してきた。絵を描くことも、書体を作ることもレイアウトをすることもプログラミングを覚えることも。
そういった、自分の持つ能力を誇示するのではなく一度全て放棄すること。
できなさ、無能力であることを誇示すること。
崩壊する、孤立する、途方にくれる、途中までしかできていない、伝わらないこと。
どんどん持っているもの、拠り所になるものを打ち捨てていくのはどうだろうか。

ラニちゃんのキャットウォーク(Toolboxで部品を注文したもの)を壁につけてみた。
最初は興味深そうに見ていたが、いざ出来上がると、登ってくれずに下から手を伸ばすだけだ。
ねこじゃらしで誘い出してみても乗ってくれる所まではいかなかった。

大きめのA3サイズのスキャナーを買うかどうか悩んでいる。絵を描いたり、えんぴつで描いたもの、ハサミで切ったものを素材として使えないか。サンプリングのように、デザインを作れないか。
Switch2のエルデンリングを始めた。携帯機ですごくきれいで、Steam Deckでもやっていたけれど、それよりも良いと思う。ただ電池が2時間ぐらいでなくなってしまう。

美的な審美眼の外側というのが興味ある、昔のinstagramの落ちている服を撮ることやポピー的なものを愛でるオモコロ的な感性という形でずっとあるけど、リミナルスペースも審美眼が拡張された例でもあると思うが、そうした空間は癒される。AIが作ったグラフィックでもあるが、それはまだ癒されるようなものではない生々しさがある。審美眼の外側にあるもの、それは見ることではなく目撃してしまうだけであり、気にも止められないものであり、行為そのものでもある。
哲学における絶滅後の世界という人間が介在していない世界を思考することは可能かというものにも大いにヒントを得られる。カルチャーのデザインというものに対してアレルギーがあるのも事実で、なくても良いと思う。そうなったら新しい無を作るのはどうだろうか。

活版印刷も、テプラもフィジカルレンダリングも作り方を作るやつもなんかコピー機のカスレも手書きアニメーションもちっさいシールペタペタ貼るやつもぐにゃぐにゃの線も文字のサイズ全部同じにするやつも茶色の紙を使うのも紙を切って風で揺らすのも誠実さの証明にはならない。

HTML DAYにおけるHTMLとCSSしか使えないというのは何かをいさぎよく手離す、あきらめるものだ。ブラウザにゆだねる。別人が作った仕様を信じて飛び込むこと。
自分の世界を表現できない気持ち良さがある。

ヤンヤン 夏の想い出を見た。
画面がきれいで、中の人間の気持ちに興味が持てなくても充分に眺める事が出来る。
皆悩みを抱えている。人は自分の後ろ姿を見る事ができない。
遠回りして、もがいて、何かを分かった気になってその内に人生が終わる。ヤンヤンの部屋のポップさがかわいい。名探偵コナンがすでに台湾版に翻訳されて読まれている。女の子のいなたい服そうが可愛いと思う。

A Window of Memoriesという映画を見た。67分という短さの安心感。
祖母の話を、別の人がしゃべる。その事で、本が出版されたみたいに、フォントで書かれた文字みたいに、親密だけど他の人も聞く事ができる物語のようになる。いちいち、俳優であることの、芝居が始まるその不自然さがする。それは演劇ではよくある事かもしれない。印刷された紙の作為のないような表情のわざとらしさが少し気になった。活版印刷もテプラも充分にわざとらしくそれを免れてはいないよなと思う。

夏休みは、特になにをやろうとか考えてなかったけど、どこにも行かないとなんかモヤモヤする感じが残りそうで、行ってみようという事で青森に行った。
なにか良い展示とかないかと探していた時に風間サチコさんの展示が弘前れんが倉庫美術館でやっていたので、丁度良い。
青森は、少しすずしかった。
風間さんの展示は、でかい絵の迫力の良さがあり、社会風刺はどことなく間抜けで笑える感じもあり、ユーモラスさとかっこ良さを同時に浴びてOKという感じ。
その後、温泉に行って、居酒屋を探したが、お盆前という事で、どこも満席でなかなか入れず、駅前の良くない所でお通し900円取られて、イマイチな料理を食べた。具体的に言うと、味のしない馬肉とうすい酒。
その店はすぐに出て、ラーメンでも食べようと別の店に行ったら、そこでは、ラーメンが580円で、3品くらい頼んでビールを2人でも2000円くらいで、青森の良い思い出になった。ラーメンも美味しかった。
ホテルはルートインに泊まったが、最上階に大浴場的なのがあるのがありがたい。部屋で入ってムシムシするのもないし、キレイで良かった。
帰りの新かん線では、灰の王という小説を読んだ。エンタメ小説という感じで、グイグイ読めたが、そういう筋書きが面白い小説みたいなものは、なんかいつも私はくだらないと思ってしまう。
あと、Analogue Pocketでゼルダのふしぎの木の実を持っていったが、無理してプレイするのはやめることにした。

あらゆる過去のアナログスタイル、時代の表現がAIによって模倣され尽くしているが、行為というのは残るのだろうか。簡易的なそれらしさが消費され尽くした後に残るもの。執念。
沖潤子の刺繍作品を見て思った。

ノートだけでなく、人に見せるためではない思いつきを書く、ジャーナリング的なものを始めてみる。
そっちは、以前使っていたモレスキンのノートに書いている。そこで思いついたのは、やろうと思っていた事、小さな事をなるべく実行に移した方が良いという事。それは、例えば私の場合ではあかすりに行くという小さなもので良い。それらを細かくやっていく事で、次の動きが生まれてくると思う。
思っていた小さなアイデアをなるべく実行していけば良い。
今日、近所の文ぼう具店で、ZENTOのシグニチャーモデルが売っていて、やっと買えた。細めの水性インクのペンは、文字を書くのに向いている。その一方で、Lamyのジェットストリームの版の良さも認識した。

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