( Note )

Note

自社サイトと読んでるサイトが大体出来上がってきたので、少しアドバイスをもらってRANDOM PLAYの機能の名前を変更した。名前を変えるだけでも少し良くなったような気がする。大体の機能が出来上がってから2週間くらい内容を入れたり、細部の調整をしている。昨日、ふと仕事ばっかりじゃなくて普段描いてるスケッチも入れたらどうかと思ったので今日入れてみた。おかげで方向性が分かるようになった。できることをアピールするのではない、できなさ、このぐらいしかできないということを出す、でも見てて作りたくなるようなものが良い。文章だって、うまく書かなくても良い。ひらめきを散りばめる。レイアウトも何かを主張するより、時たま綺麗な景色が現れるハイキングの道のようになれば良い。しかし、この感じ伝わるのだろうかと不安にもなる。こんだけ主張を詰め込んだものを作るのはこの先も多くはないだろうと思う。だったら思い切りやるべきなのだろう。

聞いた音楽 : Fontaines DC / A Hero's Death

夕食にTverでアメトーークのハーフ芸人を見ながらおでんを食べていたら、後ろの窓からザザザという音がしたのでびっくりしてそっちに行ってみるとラニちゃん(猫)が外を見ながら尻尾を振っていた。そっと近寄ってみると、窓の外に光る目が2つ見えた。外にいる猫と見つめあっていた。鳴くわけでもなくじっと見つめあってしばらくすると外猫は立ち去っていった。しばらく興奮した感じで違う窓にいったりきたりしていたがやがて来ないことがわかるとラニちゃん少し寂しそうにしていた。

見た映画 : クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王

日記を再開するぞ。
なぜかというと、新しいWeb サイトにNoteのコーナーを作ったから。
名前をNoteにしたのは、カミュの手帖という本を読んで、彼がつけていたアイデア帳がNoteと呼ばれていたのでそれが良いと思ったから。
6時半に仕事を終えて、飯作って食べて少しダラダラして9時くらいになると何をしたら良いのかわからなくなる。レコードを聴いて、音楽を聴くというよりは音が鳴っているのを空間の広がりを面白がっているだけの状態、本当酒とか飲んでれば良いのだろう。何もなさを求めるマインドというのが、最近意識するようになった。インプットとアウトプットだけでは説明がつかない、その間にある何もない状態、それはショート動画とかで埋められてしまうような空白ではなく積極的な空白の状態、サウナでも酒を飲むでも、自転車に乗るとか何かが入らなくても良いような時間の状態。ここでも意味のある記事というよりは何もない状態を書くことが良い。積極的な空白、少なさの状態、福尾匠の置き配的ふうにいうと疎という感じになるのだろう。

読んだ本:骨の記憶 / ジョンルーリー

任天堂スイッチ2が届いた。
初代のスイッチが発売される時に、あんなに小さな筐体でスカイリムをプレイできるというのがワクワクした。実際やってみると、あんまりよく動かないしそんなに楽しくなかったけども。今は、steam deckもあるし携帯機は2018年当時よりずっと色々な選択肢がある。
思うのは、PSPやVaio Pが発売されていたころの大人の方が楽しかっただろうなということ。PSPにアンテナ追加してテレビを見れたり、SONYのようなメーカーが小さな筐体のPCを作ってくれていた時代。ロマンがある。
スイッチ2は、ゼルダのティアーズオブキングダムをプレイしてみたが確かに綺麗になって嬉しい。ただロマンがあるかというとないと思う。
トーマス・ベルハンストの石灰工場という小説を読んでいるが文体が中原昌也のようで驚く。ひたすらに悪態をついているが、明らかにボケているような感じはなく、ツッコミや相対化するような描写もなく狂人の独白を聴いているのだがそれが本人談ではなく、第三者経由で聞かされるので常に文の最後に主人公は何々と言っていたとつくので、そのしつこさが嫌がらせのようですごい。面白いのか面白くないのかわからない。息継ぎのない小説で、ベケットのような前衛的な部類に入るのだろうか。文章が面白いので読めてしまう不思議さがある。
大事な部分が書けていない。そこを見過ごしている。
今は何をやっても自由なんだし、やるべきことにもっと賭けてもいいんじゃないかと思う。なぜか、会社員のような規範的な生活が抜けない。その積み重ねでやると決めたことだ。頑張るのではなく、設定した習慣の中で達成する。
手を動かす中で発生する知性を信じる。今は、また小さな積み重ねを再開したような状態でそこを信じてコツコツやっていければきっと大丈夫だと思う。Dijonのアルバムのような、中身が詰まっていて、余計な水増しのない優れた表現をやりたい。そのためには、手を動かす中でえるアイデアや発見を積み重ねる必要があるだろう。日記を書くことだってつながっている。自身が何を考えているのか。どう感じたのかを捉えること。その中に、宇宙の意思のような、皆がアクセスできるかもしれないものがあるだろう。

夏休みの最終日、お盆休みが今日で終わり。
昨日は川遊びをした。近所の川を降りてじゃぶじゃぶと川の中を進んだだけで楽しかった。今日は、朝から掃除をした後に、フルーツポンチを作った。グレープの皮を剥いてスイカを切って、ゼリーや缶詰を入れてミツヤサイダーを入れる。作りたてのものに氷を入れて食べたのが美味しかった。爽やかでサイダーの少しピリピリした感触が残る。IKEAで生活用品を注文した。ベッドサイドの本などを置くように丸い椅子や、バスマット、猫用のトンネル、乾いた洗濯物を運ぶ用に青いバッグ。届くのが楽しみだ。Dijonの出たばかりのアルバムを聴いているが良い。以前のインタビューを読み返した。音の上澄ではなく、鳴っている空間そのものを録るという手法。前のアルバムも良かったけど、このインタビューも驚いた。何かを捕まえようとしているのがわかる。それは、わかりやすい綺麗なものやリッチなものではないだろう。すごく難しそうだけど、なんとなくわかる。画一的な競争には乗らない、よくわかる。わかろうとしている。もう少し生っぽくても良い。それを捕まえるためにそのために配置したら良い。
今良いとされているもの、優秀だとされているものを全てやめてみたらどうなるだろうか。横のラインも揃っていない、ページごとの統一性もなくす、書体もモダンではないものを使う。とにかく、考えてるだけではダメだと思う。こういう考え自体はだいぶ前から構想している、一部はseeeのサイトで試した。もう少し踏み込んだものを自身のサイトでやってみるべきだ。そのために、リスクがある題材でやった方が良い。自社サイトで取り組むべき題材だと思う。ムードを捕まえることに集中する。それ以外は放棄する。HTMLの可能性を追求する。webならではなんてぬるいことは言わなくても良い。美学を表現する。誰かがすごく嫌うようなものを作ってしまえと思う。

今日は暑かった。急に夏が始まったみたいで、朝の7時だいにゴミ出しをするために外に出ても気持ちいというより既にむわっとした空気になっている。
エアコンをドライにしてかけたりした。夕方になると涼しくなるから、窓を開けるタイミングが難しい。
窓辺にいるラニちゃんは、今日は小学生の男の子が通り過ぎた後にまた帰って来て見て行った。通りすがりのおばさんたちも、あらかわいいねと言って近づいてきた。それを聞いて、近所の噂になったらどうしようか、スター猫になってしまったらどうしようかという話をした。
PS5のコントローラーの使っていない方を引っ張り出したら、スティックの部分がベタついていたので交換部品を頼んで、付け替えた。細かい作業でできるか心配だったけど、無事綺麗になって満足した。予備のコントローラーだからあまり使わないのだけれど直すと気分が良い。
Nuroのメッシュwifが届いたので早速設置してみたが、速度が300M出ていたのが100Mになって遅くなってしまったのでとりあえず外しておいた。これはがっかりだ。ルーター近くでは、800Mくらい出てるから2Fでも、近い数値が出たら嬉しいと思っていたが上手くはいかないようだ。
坂口恭平の生き延びるための事務の新書版と、修理する権利という本が届いた。
プリンターを買おうかどうか迷っている件は、ずるずると引き延ばしてしまっている。どうしようか。

毎日、日記というか考えていることをノート的に書く習慣をつけたいのだが、なかなか難しい。寝てしまうし、セットアップもどうしようか。今、PCはHKKB Studioを使っていて、それ自体は良い感じだが、夜はなるべくPCを触りたくないというモード、iPadで書けるように久しぶりにiPad用のMagic Keyboardを引っ張り出して装着して書いている。不思議なのは、このキーボードを買った時はその独特の打鍵感に感動したのだが、HKKBの深めのストロークに慣れてしまうとなんだか物足りなく感じる。
キーボードは、万年筆のようなものというのは本当で、書くこと自体の気分に影響をする。iPadもM1の製品を使っていて、特段不便があるわけでもないが、小さいサイズに買い替えたいと思うが最近の製品の価格は高いしで、ずるずると使い続けている。
なぜ、テキストを毎日書く必要があるのかというと、小さな違和感や気付いていることを仕事や制作だけをしていると気づかなかったり、流してしまうということがおおくなってしまう。また、外へと発信する言葉もその場で考えたものだけでなく、思索の中から出てくるような問いかけを入れてみたいとも思う。長い日記を書く中で出てきたエッセンス、外に出しても思うような箇所をピックアップして出すような形式の方が健全な気がする。母体は、あくまでも自分が書いている長い文章にある。
無意識、社会が要請していないざわめきを書き残したい。書き残している箇所のどこが意識的かも分からなくて良い。自分が何をしたいのか、何を大事にすべきなのか。その時々によって変わっていくのだがそれらにいつも気づけるようにするためには、頭の中を一度何かに書き留める必要がある。
不安に思うことだって書いていい。そして書かなくてもいいのだ。
なるべく小さなこと、共有されすぎていない、言語化されていない感覚を拾い集めたい。それをどうやって表現するのか。その感覚を何だったら表現できるのだろうか。
感じるためには、感じたことを書く必要がある、それを誰かに伝える、そして別の何か、まだ表現しきれていないものを探す、移動していく。
ギターの音色、写真、文章、スクラップされた図像、肌で感じること。
毎日少しづつで良い。iPadと専用のキーボードの組み合わせもまぁまぁ悪くないなと感じた。

カミュの手帖を読み終えた。
ペストを発表するまでのカミュは、明らかに調子が良い感じがあった。その後、シーシュポスの神話などで自己の哲学を確立していく、転落以降でその哲学を放棄して新たな境地へと向かう。ここまでは、明らかに多くの人が辿る道のような気もする。ヤン・チヒョルトの伝統主義への転向しかり、それほどシリアスに捉えるようなことでもない。しかし、その自己の放棄、が難しかったのだろうか、論争などもあり明らかに失速していく様子がある。手帳の中に風景の描写が減っていっているというメモが印象に残った。異邦人は、新しい人間像を文学において定義した作品である。内面豊かで情緒的でない主人公の持つ切実さを、それは普通に生きる人が持つものなのかもしれないがそれは文学の世界、プルーストのような饒舌さの中にはなかった。饒舌さではなく、ぎこちなさ、人間らしさや優しさを演じなければいけない世界の方を告発する。しかし、転落も追放と王国も面白かった。どちらにしてもカミュは新しい哲学ややり方を獲得できていたのだと思う。それは、制作方法自体の一新でもあるのだろう。カミュの手帖は、短文や思索を積み重ねることで、一つの作品を作るという試みがうまく行っている時代に機能しているものだった。後期のカミュには、そこまで有用ではなかったのではないか。すでにあるつぶやきを編集することで、一冊の本を書く、よしこれから書くぞというのではなく、すでに押してあったキャプチャボタンで録られた素材から作り始めること。私が、カミュの手帖を読み始めたのは自身の創作自体をそのようなメモを積み重ねる、先に作る、それを編集するようなスタイルに興味を持ち、実践し始めたからだ。そして、前半部分はその思索の様子がよくキャプチャされている。それ以降の制作については、より進んでいたのではないかと思う。キャプチャではなくなんだろうか。もちろん、一部は使われている。それだけではない、それは今後私自身の制作スタイルの変化から分かることなのだろうか。

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