( Note )

Note

今日は暑かった。急に夏が始まったみたいで、朝の7時だいにゴミ出しをするために外に出ても気持ちいというより既にむわっとした空気になっている。
エアコンをドライにしてかけたりした。夕方になると涼しくなるから、窓を開けるタイミングが難しい。
窓辺にいるラニちゃんは、今日は小学生の男の子が通り過ぎた後にまた帰って来て見て行った。通りすがりのおばさんたちも、あらかわいいねと言って近づいてきた。それを聞いて、近所の噂になったらどうしようか、スター猫になってしまったらどうしようかという話をした。
PS5のコントローラーの使っていない方を引っ張り出したら、スティックの部分がベタついていたので交換部品を頼んで、付け替えた。細かい作業でできるか心配だったけど、無事綺麗になって満足した。予備のコントローラーだからあまり使わないのだけれど直すと気分が良い。
Nuroのメッシュwifが届いたので早速設置してみたが、速度が300M出ていたのが100Mになって遅くなってしまったのでとりあえず外しておいた。これはがっかりだ。ルーター近くでは、800Mくらい出てるから2Fでも、近い数値が出たら嬉しいと思っていたが上手くはいかないようだ。
坂口恭平の生き延びるための事務の新書版と、修理する権利という本が届いた。
プリンターを買おうかどうか迷っている件は、ずるずると引き延ばしてしまっている。どうしようか。

毎日、日記というか考えていることをノート的に書く習慣をつけたいのだが、なかなか難しい。寝てしまうし、セットアップもどうしようか。今、PCはHKKB Studioを使っていて、それ自体は良い感じだが、夜はなるべくPCを触りたくないというモード、iPadで書けるように久しぶりにiPad用のMagic Keyboardを引っ張り出して装着して書いている。不思議なのは、このキーボードを買った時はその独特の打鍵感に感動したのだが、HKKBの深めのストロークに慣れてしまうとなんだか物足りなく感じる。
キーボードは、万年筆のようなものというのは本当で、書くこと自体の気分に影響をする。iPadもM1の製品を使っていて、特段不便があるわけでもないが、小さいサイズに買い替えたいと思うが最近の製品の価格は高いしで、ずるずると使い続けている。
なぜ、テキストを毎日書く必要があるのかというと、小さな違和感や気付いていることを仕事や制作だけをしていると気づかなかったり、流してしまうということがおおくなってしまう。また、外へと発信する言葉もその場で考えたものだけでなく、思索の中から出てくるような問いかけを入れてみたいとも思う。長い日記を書く中で出てきたエッセンス、外に出しても思うような箇所をピックアップして出すような形式の方が健全な気がする。母体は、あくまでも自分が書いている長い文章にある。
無意識、社会が要請していないざわめきを書き残したい。書き残している箇所のどこが意識的かも分からなくて良い。自分が何をしたいのか、何を大事にすべきなのか。その時々によって変わっていくのだがそれらにいつも気づけるようにするためには、頭の中を一度何かに書き留める必要がある。
不安に思うことだって書いていい。そして書かなくてもいいのだ。
なるべく小さなこと、共有されすぎていない、言語化されていない感覚を拾い集めたい。それをどうやって表現するのか。その感覚を何だったら表現できるのだろうか。
感じるためには、感じたことを書く必要がある、それを誰かに伝える、そして別の何か、まだ表現しきれていないものを探す、移動していく。
ギターの音色、写真、文章、スクラップされた図像、肌で感じること。
毎日少しづつで良い。iPadと専用のキーボードの組み合わせもまぁまぁ悪くないなと感じた。

カミュの手帖を読み終えた。
ペストを発表するまでのカミュは、明らかに調子が良い感じがあった。その後、シーシュポスの神話などで自己の哲学を確立していく、転落以降でその哲学を放棄して新たな境地へと向かう。ここまでは、明らかに多くの人が辿る道のような気もする。ヤン・チヒョルトの伝統主義への転向しかり、それほどシリアスに捉えるようなことでもない。しかし、その自己の放棄、が難しかったのだろうか、論争などもあり明らかに失速していく様子がある。手帳の中に風景の描写が減っていっているというメモが印象に残った。異邦人は、新しい人間像を文学において定義した作品である。内面豊かで情緒的でない主人公の持つ切実さを、それは普通に生きる人が持つものなのかもしれないがそれは文学の世界、プルーストのような饒舌さの中にはなかった。饒舌さではなく、ぎこちなさ、人間らしさや優しさを演じなければいけない世界の方を告発する。しかし、転落も追放と王国も面白かった。どちらにしてもカミュは新しい哲学ややり方を獲得できていたのだと思う。それは、制作方法自体の一新でもあるのだろう。カミュの手帖は、短文や思索を積み重ねることで、一つの作品を作るという試みがうまく行っている時代に機能しているものだった。後期のカミュには、そこまで有用ではなかったのではないか。すでにあるつぶやきを編集することで、一冊の本を書く、よしこれから書くぞというのではなく、すでに押してあったキャプチャボタンで録られた素材から作り始めること。私が、カミュの手帖を読み始めたのは自身の創作自体をそのようなメモを積み重ねる、先に作る、それを編集するようなスタイルに興味を持ち、実践し始めたからだ。そして、前半部分はその思索の様子がよくキャプチャされている。それ以降の制作については、より進んでいたのではないかと思う。キャプチャではなくなんだろうか。もちろん、一部は使われている。それだけではない、それは今後私自身の制作スタイルの変化から分かることなのだろうか。

お仕事のお問い合わせは以下からご連絡ください。
3営業日内に返信をいたします。

tetsuro@favourite.design